大手町「将門塚」を訪ねて
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大手町「将門塚」を訪ねて
― 石が語る、千年鎮魂の物語 ―

1級お墓ディレクター・真宗大谷派教師・建築石材アドバイザー・石材産業協会災害委員の私が書きました!先日東京の石材産業協会の総会あと、どうしても行きたかった所に行ってきました。
日本を代表するビジネス街のビルの谷間に
ひっそりと佇む「将門塚(まさかどづか)」に立ち寄ってきました。
私どもは名古屋でお墓や供養に携わる石材店として、また僧籍を持つ者として、
こうした史跡に建つ石碑・石塔・石燈籠には、どうしても目が向いてしまいます。
今回は現地の案内板や資料をもとに、
将門塚の歴史と、そこに刻まれた石の物語、
そして「供養」というものについて、じっくりまとめてみたいと思います。

■ 将門塚とはどんな場所か
将門塚は、東京都千代田区大手町一丁目。
皇居のすぐそば、超高層ビルが林立するオフィス街の真ん中にあります。
平安時代中期の武将・平将門(たいらのまさかど)の首を供養する塚として知られ、
東京都指定の旧跡です。
周囲は大手町ワンをはじめとする大企業の本社ビルに囲まれていますが、
この一角だけは木々に包まれた小さな聖域として今も残されています。
塚がある土地はもともと武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた場所で、
この地に将門の首が祀られたのが始まりとされています。
超高層ビル街の一等地に、なぜ千年前の塚が今も残っているのか。
その答えは、この後の歴史の中にあります。

■ 平将門という人物
平将門は桓武天皇の血を引く一族に生まれました。
平安京で藤原忠平に仕えた後、関東に戻って一族間の争いに巻き込まれます。
天慶2年(939年)、常陸国の国府を焼き払い、関東八ヶ国を制圧すると
自らを「新皇」と称しました。
これは朝廷への反逆とみなされ、翌天慶3年(940年)2月、
下野の豪族・藤原秀郷と甥の平貞盛らの軍によって討たれ、
38歳でその生涯を閉じます。
京都の記録では将門は「朝敵」として描かれました。
しかし関東の人々にとっては、
重税と横暴な国司支配に苦しむ自分たちのために立ち上がった英雄でもあったのです。
この評価の二面性こそが、将門をめぐる伝説を豊かにしてきた理由のひとつだと言えるでしょう。
■ 首が飛んだ、という伝説
将門の首は京都の七条河原にさらされましたが、
何日経っても腐らず、目を見開いたまま
「胴体を持ってこい、もう一度戦おう」
と叫び続けたという言い伝えが残っています。
そしてある夜、首は白い光を放って東国へと飛び去り、
力尽きて落ちた場所が現在の大手町だとされています。
将門の胴体が落ちた場所が「神田山(かどやま)」になったという説もあり、
地名そのものにこの伝説が刻まれているというのも興味深い点です。
※もちろんこれは後世に形づくられた伝承であり、史実としては縁者が首を密かに持ち帰り、当時すでにこの地にあった神社の境内に葬ったとする説が有力視されています。
■ 荒廃と鎮魂 ― 板石塔婆に刻まれた「南無阿弥陀仏」

首塚は時代とともに荒れ果て、
周辺では天変地異や不審な出来事が相次いだといいます。
人々はこれを将門の怨霊のたたりと恐れ、鎮魂を試みました。
転機となったのが徳治2年(1307年)。
諸国を遊行していた時宗の僧・他阿真教(たあしんきょう)がこの地を訪れます。
真教上人は将門に「蓮阿弥陀仏」という法名を贈り、
自ら文字を刻んだ板石塔婆(いたいしとうば)を塚の前に建立して、丁重に供養しました。
現地で目にした石碑にも、
中央に大きく「南無阿弥陀仏」、
脇に「平将門 蓮阿弥陀仏」、
そして「徳治二年」の文字が刻まれています。
板石塔婆は鎌倉から室町時代にかけて関東地方で広く用いられた供養塔の形式で、
緑泥片岩(青石)などの板状の石材を用いるのが特徴です。
日々お石塔と向き合う私どもから見ても、
700年以上前の造塔文化がこうして今に伝わっていることには、深い感慨を覚えます。
※ちなみに現在の石碑は、昭和15年(1940年)の将門公一千年祭に際して、大蔵省が真教上人直筆の板碑を模刻したものだと伝えられています。
このとき、傍らにあった社に将門の霊が合祀され、これが後の神田明神へとつながっていきます。
神田明神は将門を祭神の一柱として祀り、今も将門塚の保存や祭祀を担う存在です。
■ 幾度の受難と再建 ― 石は残り、街は変わる
将門塚の歴史は、単なる古い伝説にとどまりません。
近代以降も度重なる開発の波にさらされてきました。
- 大正12年(1923年):関東大震災後、跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員に不幸が相次ぎ、将門のたたりが噂される
- 戦後:進駐軍が土地を接収して工事を試みるも、重機が横転する事故が起きて計画が中止に
- 昭和36年(1961年):第一次整備工事を実施
- 令和2〜3年(2020〜2021年):周辺再開発「大手町ワン」に合わせ、第六次改修工事を実施
現地で見た石碑や石燈籠の多くは、こうした整備の過程で守られ、
時に新調されながら受け継がれてきたものです。

案内板にも「文化財を大切にしましょう」という言葉とともに、
令和3年5月に東京都教育委員会によって整備されたことが記されています。
超高層ビルに囲まれた一等地でありながら、これほど長く塚が現地に残り続けているのは、
単なる偶然ではありません。
幾世代にもわたる地域の人々や企業、保存会の意志の積み重ねによるものだと感じます。
■ 石燈籠とカエルの像

境内には、苔むした古い石燈籠も残されています。
かつてこの場所は「将門首洗いの池」と呼ばれた池のほとりだったとも伝えられ、
石燈籠はその名残とも考えられます。
長い年月を経た石の質感からは、幾度の改修を経てもなお受け継がれてきた重みが伝わってきます。
また将門塚といえば、かつて多くのカエルの置物が奉納されていたことでも知られています。
これは将門の首が京都から東国へ「帰って」きたという伝承と、「カエル」の語呂合わせに由来するもので、
転勤や出張で遠方へ行く人が無事に「帰る」ように、
あるいは行方不明になった人が無事に「帰る」ようにという願いを込めて供えられてきました。
※第六次改修以降は境内への供物や物品の奉納は禁止されています。
■ 石屋として、僧として感じたこと
板石塔婆、供養塔、石燈籠――
今回将門塚で目にした石造物は、いずれも数百年、あるいは千年近い時間を生き延びてきたものです。
木造の社殿や紙の記録が火災や戦災で失われやすいのに対し、
石に刻まれた文字や形は、風化はしても消えることなく、
その場所の記憶と、そこに込められた祈りを静かに伝え続けます。
将門塚が幾度の都市開発を経てもなお守られてきた背景には、
目には見えない「たたり」への畏れだけでなく、
石という素材が持つ不変性、
そして700年以上前に真教上人が板碑に込めた鎮魂の願いが、
今も人々の心を動かし続けているからではないかと感じます。
お墓や供養の仕事をさせていただく私どもにとっても、
改めて「石に想いを刻むこと」の重みを教えられる訪問でした。
大手町を訪れる機会があれば、ぜひ足を止めて、
ビルの谷間にひっそりと佇むこの石碑を眺めてみてください。
ネオンときらびやかな夜景の向こうに、
千年を超えて受け継がれてきた祈りの形が見えてくるはずです。

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