石にきざまれた三河地震の記憶 ― 伝承碑をたずねて(前編・安城/西尾)

私・山田は、日本石材産業協会 愛知県支部で支部長を務めています。先日、その支部の活動として、見学ツアーを自分で企画しました。テーマは「三河地震のゆかりの地をめぐる」。伝承碑や断層、被災したお寺の石造物を一日かけてたずねる研修です。

石材店として、ふだんはお墓を建てたり、お手入れをしたりしています。けれどこの日は少し立場を変えて、「石が災害の記憶をどう伝えているのか」を、会員のみなさんと一緒に足と目で確かめてきました。三回に分けて、その様子をゆっくりお伝えしていきますね。前編は、出発地の安城市と西尾方面です。

当日の朝は、集合場所でまず顔合わせから。移動は、私と数名の会員で車を出し、みんなで分乗して向かいました。同業の仲間と同じ車に乗り合わせると、道中から「あの碑はどんな石だろう」と話がはずみます。天気にも恵まれ、まるで遠足のような気分で一日が始まりました。

そもそも「三河地震」をご存じですか

三河地震は、昭和20年(1945年)1月13日の未明に起きた大きな地震です。マグニチュードは6.8。海の向こうの地震ではなく、私たちの足元、三河平野の直下で断層が動いた「内陸直下型」でした。

このとき亡くなった方は2,000人以上。全壊した家も数えきれないほどでした。それほどの大災害でありながら、当時は戦争のさなか。被害の大きさが長く公にされず、「隠された大震災」とも呼ばれています。名古屋やその周辺に暮らしていても、意外と知らない方が多いのではないでしょうか。私たち自身、あらためて資料に向き合うと、身近な土地でこれほどのことがあったのかと胸がつまりました。

まずはその記憶が刻まれた石碑から、一日が始まりました。

安城市藤井町「三河地震追憶之碑」

最初にたずねたのは、安城市藤井町に建つ「三河地震追憶之碑」です。昭和52年、地元の藤井町のみなさんの手で建てられた碑でした。

案内してくださった方によると、藤井の集落は当時117戸。そのほとんどが甚大な被害を受けたそうです。碑にはびっしりと文字が刻まれていて、真夜中に突然おそってきた揺れ、倒れた家の下から人を救い出そうとした住民の姿、そして復興への祈りが、生々しく綴られていました。

会員みんなで、碑の前にしゃがみこむようにして、一字一字を追っていきました。石材店の目でみると、大きな一枚石にこれだけの文章をおさめた彫りの丁寧さにも、あらためて頭が下がります。八十年前の人たちが「わすれないでほしい」と石に託した思いが、今もまっすぐ伝わってくる。それが、この日いちばん最初の実感でした。

西尾方面「三河大地震之碑」と「土地改良碑」

続いて西尾の方面へ。ここには二つの碑を見学に行きました。

ひとつは「三河大地震之碑」。堂々とした黒御影の一枚石で、傍らには追悼の詩を刻んだ副碑が添えられていました。震災の記憶と、亡くなった方への追悼を伝える碑です。

もうひとつは「土地改良碑」。こちらは、震災のあとに進められた復興と土地改良の歩みを記録した碑でした。近くに建っていても「追悼」と「記録」では、碑の役割が少しちがう。石が果たしている仕事の幅の広さを、二つ並べて見ることで教えられた気がします。

八十年という時間を経て、それでも文字はしっかりと読める。石という素材が、どれだけ長く記憶をとどめられるのか。私たちがふだん扱っている石の力を、こういう現場であらためて感じました。

石にきざむ、ということ

お墓も、伝承碑も、根っこは同じだと思います。大切なことを、時間をこえて次の世代へ手渡すために、人は石を選んできました。

前編でめぐった伝承碑は、どれも「もう二度とくり返さないように」という願いの結晶でした。名古屋で石にたずさわる者として、一文字を彫ること、一基を据えることの意味を、静かに考えさせられる半日でした。

次回は、いよいよ現地にそのまま残る活断層「深溝断層」と、地震で被災したお寺・本光寺をご紹介します。よろしければ、また続きをのぞきにきてくださいね。

三河地震やお墓のこと、石のことで気になることがありましたら、光徳石材(名古屋市名東区つつじが丘)へお気軽にどうぞ。しつこい営業は一切しておりませんので、ちょっとした疑問でも大丈夫です。

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名古屋の墓地と墓石の風景

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