「善いこと」をしようとする傲慢さと、ちいかわの葛藤――オンライン読書会で『大無量寿経』を味わう

昨夜20時から、オンラインで仲間たちと仏教の勉強会をしました。

私たちが使っているテキストは『真宗児童聖典』。子ども向けに書かれた本なんですが、これが読むたびに大人にもズシンと響いてくるんです。不思議な本です。

今回も、真宗大谷派の僧侶・梅溪さん、いつも鋭くあたたかい問いをくださる田中稔さん、中野良一さんと一緒に、『大無量寿経』をじっくり味わいました。あっという間の夜でした。

天界って、実は迷いの世界なんです

まず皆で読経してから、対話へ。

経文に出てくる「五道(地獄・餓鬼・畜生・人間・天)」の話になりました。「天界」って聞くと、なんとなく極楽に近いゴールのイメージがありますよね。でも仏教では、天界もまだ輪廻の中。迷いの世界の一部なんです。

田中さんが『西遊記』のキャラクターを例に出してくださって、「貪・瞋・痴」の三毒をどう抱えて生きているか、という話でしばらく盛り上がりました。途中で「三蔵法師って一人の名前じゃなくて、経・律・論を修めた僧への敬称なんですよ」という話も飛び出して、気づいたらずいぶん時間が経っていました。

「五悪」の教えが、禁止令じゃないとしたら?

今回いちばん深く語り合ったのが、お経に説かれる「五悪」の話です。

殺生や嘘、親不孝……。字面だけ見ると「ダメなことリスト」みたいに見えますよね。でも梅溪さんの言葉で、場の見え方がガラッと変わりました。

「これは禁止令じゃなくて、悪の中にいながらも心を落ち着けて歩むことを勧める、逆説的な教えなんです。阿弥陀仏が本願を立てられた動機そのものにつながっている」

そこに田中さんが「お墓参りをしなかったり、親孝行できなかったりすることも『悪』になるんでしょうか?」と問いを投げてくれて。

仏教の「悪」って、一楽真先生の言葉を借りると「他者や自分を傷つけること」なんですよね。私からは、「善いことをしようとしないこと(怠けること)も、悪の一形態じゃないかな」とお話ししました。だからこそ、先人を敬い、お墓参りで亡き人との縁を確かめることって、大事な実践なんじゃないかって。

私自身、お会いしたことのない清沢満之先生や金子大栄先生のお墓参りをライフワークのように続けていて、その感覚を皆さんと共有できたのが、ひそかに嬉しかったです。

ちいかわの島で「五悪」を考えた夜

そこから話は、なぜか現代のマンガへ(笑)。

私が例に出したのが、『ちいかわ』の「島編」です。あの物語って、「誰が一番悪いのか」「何が正解だったのか」を読み終えてもずっと考えさせられますよね。登場するキャラクターの誰もが、それぞれの事情と葛藤を抱えていて、単純に白黒つけられない。

それって、私たちが日々感じている人間関係の難しさや、社会の生きづらさそのものじゃないかな、と。

「八万四千の法門」という言葉があるように、1500年前に書かれた経典が、今の私たちの悩みにも真っ直ぐ応えてくれる。それを感じるには、経典の言葉を「昔の話」としてではなく、「自分ごと」として受け取れるかどうかにかかっているんだと思います。

「善いことをしてる」と思った瞬間が、危ない

後半は「妙好人(みょうこうにん)」の話から、信仰のパラドックスへ。

鈴木大拙先生の言葉にもあるように、知識をつければつけるほど「概念のガラクタ」が頭に溜まって、知的な傲慢さに陥りやすくなるんですよね。文字が読めなくても純粋に仏さまの光を喜んだ妙好人と比べると、「私は良いことをしている」と思った瞬間に、もうそれは傲慢な心にすり替わっている。

自分の善を誇るのではなく、ただ道を求め、念仏を日常の中でいただいて生きていく——。

梅溪さんから「菩薩行ですね」とお言葉をいただいたんですが、正直、そんな自覚はまったくないんです。ただ、自分自身の迷いの中で、身近な大切な人たちと一緒に学んでいきたい。その気持ちだけです。

おわりに

画面越しでも、気づけばあっという間の夜でした。最後に皆でお互いへの感謝を伝え合って、会を閉じました。

難しい教義を机の上でこねくり回すのではなく、日常のこと、マンガのこと、自分自身の弱さと結びつけながら語り合える時間。私にとってはほんとうに、かけがえのない宝物です。

次回もまた、仲間たちと一歩ずつ。

名古屋の墓地と墓石の風景

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